2011年6月26日日曜日

大願(コラム1)

http://sankei.jp.msn.com/region/news/110626/iwt11062613480000-n1.htm


http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011062601000247.html




 被災した地元の方達にとって、とても大きな喜びをもたらした
事だろう。平安時代に天変地異や戦乱で当時混乱の極みに
あった奥州を統一した、奥州藤原氏・初代清衡公によって建立さ
れた中尊寺をはじめとする、


「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」


が本日未明、世界文化遺産に登録された。
 東日本大震災の震災復興支援という意味合いもあるの
だろう。正しく文字通りに、この決定が地元だけではなく
日本全国に「浄土の風、希望の光」の先駆けとなったようだ。


 中心となる中尊寺の貫主を務められた故今東光大僧正
津軽人の血を引く自覚から、自ら「東夷の沙門」と号し、奥州の
秘められた歴史を世に知らしめるべく「中尊寺」「蒼き蝦夷の血」
「奥州藤原氏の栄光と挫折」等を著されている。誠に残念な事に
奥州藤原氏四代の興亡を描く「蒼き蝦夷の血」は、今倪下の遷化
による絶筆の為、鎌倉幕府による奥州藤原氏の滅亡を描く事
なく、未完となっているのが惜しい限りである。そしてまた、
真如苑開祖・伊藤真乗教主親交が篤く、1976年11月に
開祖謹刻の涅槃像が中尊寺に送られている事を記しておく。


 震災以降、その復興支援に取り組んでいる真如苑であるが
その立創当初からの本尊である、大日大聖不動明王像には、
「寿永三年(一一八三)運慶作」「静岡県韮山町・願成就院の不動明王像との関連」についての伝承が受継がれている。この、
願成就院は文治五年(一一八九)に、源頼朝の奥州藤原征伐の
成功祈願の為、頼朝公の岳父北条時政公が建立し、その諸像は
文治二年(一一八六)に刻み始められた事が判明している。
二体の不動明王像にどの様な関わりがあったのか?。総ては
時の彼方のヴェールに覆われ、今となっては判らない。
 平泉に都を開いた奥州藤原氏にとって、それを灰燼に帰した
源氏・北条氏建立の願成就院は怨敵の寺という事になろうか。
 奥州藤原氏の仇との関わりの伝えられる不動明王像を、本尊
として祀る真如苑が、貞観地震以来の震災に襲われた奥州東北の地に先頭を切って手を差し伸べた事が、「単なる行きがかりと
思えない」と言ってしまっては思い込みが過ぎるだろうか?。


 そして、 治承の兵火によって、拠点となる奈良の興福寺や
東大寺を焼失した経験を持つ運慶にとって、自ら刻んだみ像を
通じて、み仏の功徳を憑みにした人々が、奥州・平泉の都を
灰燼に帰せしめたという事実がもたらした衝撃、悔恨、苦悩は
如何ばかりの物だったのだろうか…。


中尊寺公式HP

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