2016年2月17日水曜日

大般涅槃経について① -隠滅の理由-

 真如苑が所依の経典とし、多くの宗祖がそのエッセンスを摂入れつつ
も、中国の涅槃宗を除き、何故か宗旨の中心に据えられる事がない大般涅槃経。釈尊遺言の教えであるにも関わらず、ここまで棚上され
続けたのは何故か?。長年温めていた思い付きを少し綴ってみる。

 『生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。
岩波文庫 中村元著 「ブッダのことば -スッタニパータ-」より

 以前「2015 五つの灯籠流し」でも指摘した事だが、大般涅槃経の
序品~純陀品にかけて、臨終の釈尊の最後のみ教えを説く宣言、
釈尊への最後の飲食供養者として持たざる者純陀が選ばれ、文殊
との討論を経て、純陀に向けて最後のみ教えが説かれ始めるまでが
描かれている。真如苑開祖伊藤真乗は大般涅槃経を一言で

実践がなにより尊い

とそのコンセプトを説いているが、大般涅槃経に描かれる純陀尊師ほど
上記スッタニパータの引用部を具体的に表現したキャラクターはないの
ではないだろうか。そしてこの純陀の存在をどう理解するかが、大乗の
大般涅槃経が著された当時の古代インド社会において二つの大きな
問題を引き起こしたのではないだろうか。

 生まれより行為。現代の民主主義社会に生きる我々はこの主張を
なんの違和感もなく受止める事が出来るが、ヴァルナ・カーストの様な
今日まで大きな影響を与える強固な身分制度のあるインド古代社会
では大変ショッキングな危険思想だった事は想像に難くない。おそらく
当時の仏教教団においても同様。出家によって身分から一定の距離
を置いた僧侶ならともかく在家信者にとってこの点重くのしかかったので
はないか。下層階級の純陀尊師が世尊に最後の飲食供養を捧げる
事でこのコンセプトを表現した大般涅槃経はその最右翼と見なされた
に違いない。

出家在家共に救われる教え

 もう一つ、開祖は大般涅槃経について上記の様に説いているが、
当経典では、文殊師利と純陀尊師の討論に、釈尊が純陀の優を
判定する形でこれを表現しているのだが、当時の出家者にとって
これは深刻なジレンマをもたらしたのではないだろうか。すなわち

在家のままでも救われる(悟りに至れる)ならば
 出家する事に一体何の意味があるのか

といった出家者の存在意義への迷いが生じたのではないだろうか。
この様な迷いが以前「ある懸念」で引用した悪比丘の存在を産出し
たのだろうか。もし、当時のインドに在家者として還俗して仏の教えを
求める道があるなら(開祖はその様にして涅槃経を説いたのだが)
それほど問題は大きくないだろうが、一旦身分制度から離れた出家者
が仏教教団から離れて元の生活に戻れたのかどうか。この件はインド
で仏教が終焉を迎えるまで仏教徒を悩ませる事になったらしい。
 チャチュ・ナーマ等のムスリムの文献にはイスラム勢力の侵攻によって
危機的状況に陥ったヒンドゥー社会に下層階級として取り込まれた
仏教徒集団が抑圧を離れるためにイスラム教に改宗した事実が記さ
れている(山川出版社・世界歴史体系・南アジア史2より)

 いずれにせよ、大般涅槃経が古代社会に生きる仏教徒にとって、
その存在意義を問う危険な側面があった事が想像される。故に
日本が太平洋戦争に敗戦し、戦勝国アメリカによって仮初にせよ
民主主義が浸透し始めた昭和30年代になるまで、大般涅槃経が
大っぴらに説かれる事がなかったのではないか。

          賢者の説目は機を待ち人を待つ

                                 南無真如

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