2015年6月21日日曜日

接心道場の時代 -そして復建の今-

 今国会での安保法制論議で、立川の郷土史「砂川事件」に脚光
が当たっている。件の人物が砂川事件の最高裁判決を以って
日本が集団的自衛権を行使しうる根拠とした為だ。

 昭和32年、当時真如苑は法難(まこと教団事件)の最終的解決
がついていない中、教団存続の基となった真導院の霊言「僕の
やすむところよりも、皆さんの心の休み場所(接心道場)を先に」を汲み、接心道場の建立に邁進、開祖伊藤真乗は大般涅槃経
・高貴徳王菩薩品の一節「像及び仏塔を造る事、猶し大拇指の
如くし、常に歓喜心を生ぜば、即ち不動国に生ぜん」に触れ接心
道場安置の一丈六尺の大涅槃像謹刻に取組む。こうした教団の
再出発に余念のない状況だったと言って良いだろう。

 同年9月22日、立川米軍基地拡張の為の測量阻止の為、基地
内に立ち入ったとして、砂川闘争に参加した学生や労働組合員
23名が検挙、うち7名が起訴される砂川事件が勃発、一審では
無罪(伊達判決)となるも、検察はこれを最高裁に跳躍上告する。
これを最高裁は統治行為論を骨子とした判決により、原判決を
破棄、地裁に差し戻され起訴された7名は有罪となった。しかし
これは米軍駐留を違憲と判断した伊達判決を、アメリカの世界
的核戦略展開の為、当時岸信介政権下で進行中の、日米安全
保障条約改定調印の最大の障害と見た、戦後占領時代からの
米軍基地特権を保持し続けようとしたマッカーサー二世駐日米
大使らの、最高裁判所までをも含む、内政干渉によるものであっ
た事が2008年以降(奇しくも真如苑大日如来クリスティーズ
オークションにかけられた年でもある新原昭治による米解禁
公文書の調査によって明らかにされている。
 その後も拡張予定地の地権者らは土地収用を拒否し続け、
1968年(真如苑発祥精舎荘厳の年にあたる)米軍は横田への
移転を決定、1977年(これも発祥第二精舎荘厳の年)跡地は
日本に全面返還されるに至る。基地が返還されなければおそらく
立川市は基地の街となって、今日の様に、多摩地区の中心と目
され、平穏な繁栄を享受する事もなく、そして開祖が接心道場の
時代より構想していた総合道場(現応現院)建立が実現する事
もなかっただろう。
米軍立川基地の変遷
 この全面返還を以って砂川闘争は勝利と位置づけられたが、
司法判断という別のステージにおいて、沖縄を含む他の地域
の米軍基地闘争は今日まで全て砂川事件最高裁判決を判例と
して、米軍の特権は維持され続けている。

砂川事件と田中最高裁長官


 「歴史は繰り返す」と言う。真如苑が接心道場を復建する本年
安保条約を改定した岸信介の孫にあたる人物が国民と国土の
安全を訴え安保法制を改定しようとしている。昭和30年代当時
と唯一相違があるとすれば、件の人物と真如苑の間にご縁が
ある事だろうか。開祖遷化の平成元年、追悼法要に父君、母君
と共に哀悼の意を表した事が、当時の歓喜世界特集号である、
創の悠恒に」に記されている。現在氏と真如苑がどの様な関係
にあるか不明だが、教団の社会貢献活動において実りを産んで
いるのだろうか。 

 冒頭の件の人物のドイツ記者会見の約一週間後6月14日に
真如苑はベルリンにて灯籠流しを行ったが、早い段階で荒天が
予想され、開式を6時間もの大幅に渡って早め執行する異例の
事態となり、予定されていたネット中継は収録録画によるものと
なった。当日苑主代表は挨拶にて「負けない心」を訴えたが、
過去にも、同時多発テロ直前に行われたシカゴ支部落慶の際、
様々な注意が必要なほどの荒天が現地にて見られた事がある。

 真如苑苑主はベルリン灯籠流しだけでなく、世界各地で法会
を行い、そこに向けられる人々の祈りを結集、真如の功徳を遍く
展べられている。こうしたみ光が歴史の闇をも照らし、新たな闇
が生じない事を信じたい。

                                南無真如





2015年6月8日月曜日

『犬』が象徴するもの

 以前、真如苑昨年復建の接心道場に本年は苑の護法善神を
奉安する事報じたが、本年は真如苑開祖修行の祖山醍醐寺
三宝院開創九百年にあたり、高野山開創千二百年を迎える
真言宗全体にとって大きな節目になる年と言える。ここに醍醐寺
開山・聖宝尊師の少々不可解で、一見スキャンダラスにも見える
ある伝承について見つめてみたい。

 『醍醐雑事記』(『慶延記』)に、天安二年(858)聖宝尊師が四国
に巡錫し、後の醍醐寺第一世観賢と讃岐で出会う著名な説話が
あるが、その発端は、聖宝とその師真雅との確執にあった事が
伝えられている。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・
 真雅は、犬をたいそう可愛がり、大事に飼っていた。聖宝は、犬を憎み嫌悪していた。
二人の犬に対する愛憎は、水火の仲といってよいものであった。真雅が外出して
いた折りに、門前に猟師が行ったり来たりして、犬を見ながら、いかにもその犬を欲し
そうなそぶりをあらわしていた。聖宝は、それを察して欲しいなら捕まえて、早く立ち
去れと言った。猟師は、たいそう喜んで犬を連れていってしまった。
 やがて真雅が寺に帰ってきて、食事の時間に愛犬を呼んだが、もちろん犬は顔をみせ
なかった。翌日になって真雅は、犬を探したが、犬の姿はどこにもみあたらなかった。
この時、真雅は怒って、「この寺房には犬を憎んでいる者がいるのを、わたしは知って
いる。わたしの寺房のなかの者で、わたしが犬を可愛がっているのを受け入れない者は、
同宿させるわけにはいかない」と言った。
 この時、聖宝は自分のした事を顧みて、真雅の言いつけを気にかけ、寺を抜けだし
て四国に旅立ち修行につとめることになった・・・・・・・・・・』
吉川弘文館・人物叢書・佐伯有清著「聖宝」より

 観賢を見出した聖宝はこの後、真雅が真言宗拡張の為、その
権勢を後ろ盾とした藤原良房のとりなしによって、師の勘気を
解かれる事になる。
 『聖宝』の著者である佐伯有清氏は同書の中で上記引用部の
ナンセンスさを指摘し、世俗の権勢と結びついて真言宗の拡張
に努める真雅と、そうした世俗の権勢と結びついた師を含む、
当時の仏教界に批判的な聖宝の視線が、この師弟に隙を生じ
たのではないかとしている。また、醍醐寺公式サイトの伝記の
漫画聖宝伝には師の元にある犬と自分の行く末を重ね合わせ
旅立つ聖宝尊師の姿が描かれている。

 この伝承は何を表しているのだろうか?。佐伯有清氏が言う
よう、上記引用部が創作であるなら、この言い伝えの背景には
どんな真実が潜んでいるのだろうか?。何故に「犬」を中心に
この伝承が表されたのか?。

 宗教民俗学を打立てた五来重氏は著書「山の宗教」の中で
多くの修験の霊山には狩人の開創と伝えられるものが多いと
述べている。伝承の中では狩人=修験者と捉えて良いようだ。
そして、

『・・・・・・・・・・・・・・
 空海が伽藍の建立と修行の地を求めてさまよっていた際、大和国(現在の奈良県)宇智郡で
狩人らしき男(狩場明神の化身)に呼びとめられた。
「密教を広めるためにふさわしい場所を念じて、唐から投げた三鈷杵を探している」
と空海が話したところ、狩人は
「その場所なら知っている。お教えしよう」
と連れていた2匹の犬を放った。犬たちに導かれ高野山にたどり着くと、このあたりを守る地主
の神・丹生都比売大神からご宣託があった。
「私はこの山の王である。この山のすべてをあなたに差し上げましょう」と。
・・・・・・・・・・・・・・・』
講談社「KOYASAN Insight Guide 高野山を知る一〇八のキーワード」より

 上記高野山開創伝説に登場する神々、これら高野山における
護法善神の眷属としてここに犬が登場している。
 真雅は当然、真言宗の護法神としても高野山開創の狩場明神
や丹生都比売大神を尊んでいた事だろう。これら神々について
の秘伝に属するものを、当時の聖宝が自らの志に随いそれを
求める狩人=修験者に伝えたとしたら、それはいわゆる越法の
罪とみなされるのではないだろうか?。

犬とは高野山の護法善神に関る秘事の象徴ではないのか?。

山の宗教