少々長かった改修工事が終わり今夏、慧燈霊線参拝が開始
された。慧燈院の庭先のほんの一部を改修・解放し、少々の
ギミックを追加しただけの、稚拙で些細なあっけないぐらい
の体験ではあるが、その記憶を反芻する度、自分自身が帆に
暖かい風を受け走り出す舟の様な心地がする。開祖霊祖の
祈りとは、きっとこの様に人々を勇気づける物なのだろう。
さて、この開祖が晩年の数年間を過ごした慧燈院だが、
以前は青年道場という、現在で言えば応現院の食堂棟と
修行棟を合わせた様な施設があった土地に、1970年代
後半の発祥第二精舎建立に伴い、狭小となった総本部の
発祥第一精舎にあった庫裡棟(笠法護法善神社の後方、
2010年代後半の聖地復建荘厳にて取り壊され、現在は
境内地となり頒布コーナーの仮設テントが設置されている。
青年道場の機能はその後建立された青年会館に継承された
が、それも昨年取壊され現在は真澄寺別院・第三布教会館
となっている。以前にも「布教会館」の名を冠した教団の
施設はあったが、第三布教会館が「真澄寺別院」とされて
いる事に注意したい。)
が移設されたものだった。その為建立後「慧燈院」という
名称が定まるまでの僅かな期間ではあったがこの建物を
「オミクリ」と呼んでいた時期がある。だがこの呼称は
好ましからざるものだったらしい。正式に「慧燈院」と
名称が決まった際、その理由として
『「クリ」と呼称される建物は「僧侶の住居」を表し
税法上宗教法人が受ける免除の対象外になるから』
という話が、非公式に当時の青年層にまで伝わっていた事
を憶えている。今回慧燈霊線参拝が行われ慧燈院も教徒の
参拝の場所となった事から、私もこのエピソードの開示に
踏み切った次第。
どうも自分は誤解されているのではないだろうか…
三年前のショッキングな事件を報じた際、同時に教団の持つ
閉鎖性を中心に批判を展開した自分だが、別に尊き方々の
生活の様子が見たい訳ではない。立教当初とはくらべものに
ならないくらい巨大になったこの教団の非民主的で不透明な
在り様に未来への継続の危惧を抱いているからだ。
今夏、慧燈霊線参拝に至るまで
青年会館取壊し→第三布教会館建設→慧燈院改修
のプロセスがあった訳だが、おそらくそれまで慧燈院内部に
あった教団運営機能も、第三布教会館に移転したのではない
だろうか?。確かにこの慧燈霊線参拝によって我々一般教徒
と、尊き方々の距離はより近いものになったのかもしれない
が、その陰でこの見通しの悪い教団組織が、より人知れず
隠然としたものになっているのかもしれない。
南無真如
親苑時報2017/10月号・苑主瑞教に「…(真澄寺別院:原文ルビ)は尊い歴史と意義を持つ伽藍…」とある。栃木や山梨の様に長い期間、斉燈護摩や灯籠流し等の尊い法義が信徒の前で行われ続けたり、悠音精舎や友心院の様に現在進行形で修行の場になっている依処であれば、疑問の余地はないが、第三布教会館は法義の場所でも修行の場でもない、教団職員のみが活動する非公開の場所である。内部での活動がうかがい知れない以上、一概に論じる事は避けなければならない。
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