奉安する事を報じたが、本年は真如苑開祖修行の祖山醍醐寺の
三宝院が開創九百年にあたり、高野山も開創千二百年を迎える
真言宗全体にとって大きな節目になる年と言える。ここに醍醐寺
開山・聖宝尊師の少々不可解で、一見スキャンダラスにも見える
ある伝承について見つめてみたい。
『醍醐雑事記』(『慶延記』)に、天安二年(858)聖宝尊師が四国
に巡錫し、後の醍醐寺第一世観賢と讃岐で出会う著名な説話が
あるが、その発端は、聖宝とその師真雅との確執にあった事が
伝えられている。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・
真雅は、犬をたいそう可愛がり、大事に飼っていた。聖宝は、犬を憎み嫌悪していた。
二人の犬に対する愛憎は、水火の仲といってよいものであった。真雅が外出して
いた折りに、門前に猟師が行ったり来たりして、犬を見ながら、いかにもその犬を欲し
そうなそぶりをあらわしていた。聖宝は、それを察して欲しいなら捕まえて、早く立ち
去れと言った。猟師は、たいそう喜んで犬を連れていってしまった。
やがて真雅が寺に帰ってきて、食事の時間に愛犬を呼んだが、もちろん犬は顔をみせ
なかった。翌日になって真雅は、犬を探したが、犬の姿はどこにもみあたらなかった。
この時、真雅は怒って、「この寺房には犬を憎んでいる者がいるのを、わたしは知って
いる。わたしの寺房のなかの者で、わたしが犬を可愛がっているのを受け入れない者は、
同宿させるわけにはいかない」と言った。
この時、聖宝は自分のした事を顧みて、真雅の言いつけを気にかけ、寺を抜けだし
て四国に旅立ち修行につとめることになった・・・・・・・・・・』
吉川弘文館・人物叢書・佐伯有清著「聖宝」より
観賢を見出した聖宝はこの後、真雅が真言宗拡張の為、その
権勢を後ろ盾とした藤原良房のとりなしによって、師の勘気を
解かれる事になる。
『聖宝』の著者である佐伯有清氏は同書の中で上記引用部の
ナンセンスさを指摘し、世俗の権勢と結びついて真言宗の拡張
に努める真雅と、そうした世俗の権勢と結びついた師を含む、
当時の仏教界に批判的な聖宝の視線が、この師弟に隙を生じ
たのではないかとしている。また、醍醐寺公式サイトの伝記の
漫画聖宝伝には師の元にある犬と自分の行く末を重ね合わせ
旅立つ聖宝尊師の姿が描かれている。
この伝承は何を表しているのだろうか?。佐伯有清氏が言う
よう、上記引用部が創作であるなら、この言い伝えの背景には
どんな真実が潜んでいるのだろうか?。何故に「犬」を中心に
この伝承が表されたのか?。
宗教民俗学を打立てた五来重氏は著書「山の宗教」の中で
多くの修験の霊山には狩人の開創と伝えられるものが多いと
述べている。伝承の中では狩人=修験者と捉えて良いようだ。
そして、
『・・・・・・・・・・・・・・
空海が伽藍の建立と修行の地を求めてさまよっていた際、大和国(現在の奈良県)宇智郡で
狩人らしき男(狩場明神の化身)に呼びとめられた。
「密教を広めるためにふさわしい場所を念じて、唐から投げた三鈷杵を探している」
と空海が話したところ、狩人は
「その場所なら知っている。お教えしよう」
と連れていた2匹の犬を放った。犬たちに導かれ高野山にたどり着くと、このあたりを守る地主
の神・丹生都比売大神からご宣託があった。
「私はこの山の王である。この山のすべてをあなたに差し上げましょう」と。
・・・・・・・・・・・・・・・』
講談社「KOYASAN Insight Guide 高野山を知る一〇八のキーワード」より
上記高野山開創伝説に登場する神々、これら高野山における
護法善神の眷属としてここに犬が登場している。
真雅は当然、真言宗の護法神としても高野山開創の狩場明神
や丹生都比売大神を尊んでいた事だろう。これら神々について
の秘伝に属するものを、当時の聖宝が自らの志に随いそれを
求める狩人=修験者に伝えたとしたら、それはいわゆる越法の
罪とみなされるのではないだろうか?。
犬とは高野山の護法善神に関る秘事の象徴ではないのか?。
山の宗教 |
余談その1
返信削除聖宝と同時代の人物に、天台修験の千日回峰行を創始した相応和尚(八三一~九一六)がいる。聖宝が空海の孫弟子にあたるのと同じく、相応和尚も最澄の孫弟子にあたり、奇しくも平安初期に始まった日本仏教の二大宗派の三世代目が、この時期に、各々自宗派を日本の山岳宗教=修験道とより高度な融合を図っているのは興味深い。
余談その2
返信削除聖宝と同時代の人物にもう一人、菅原道真公を挙げて置く。菅公が右大臣、藤原時平が左大臣として、政務を預かっていた醍醐天皇の治世、菅公と聖宝の間に何らかの交友関係があったらしく、菅公が大宰府に左遷され現地で他界すると、聖宝は醍醐寺山内に供養塔を建立、追善の儀を尽くし、普明寺にも菅公像を祀り菩提を祈った事が伝えられている(淡交社・旧古寺巡礼3「醍醐寺」醍醐寺101世・故岡田宥秀倪下より)。修行中は自宗派を含む当時の仏教界に批判的な視線を向けていた聖宝と、当時改革派の政治家だった菅公との間に何か共感するものがあったのだろうか。他界後、朝廷や藤原摂関家に起こった一連の不幸から怨霊として畏れられ神として祀られた菅公だが、私が上記エピソードを知った時、自ら信ずる仏の教えに則り、徒にその御霊を畏れる事なく、一人の友の菩提を祈る聖宝の姿が見えるように感じた。
余談その3
返信削除『…この「山中納骨」は、遺骨が山上の霊魂と再会を果たし、魂と骨が合体することで山中における浄土往生が実現するというコスモロジーを形成していることを、”宗教・民俗学者”、五来重や山折哲雄が語っているが…』(中央公論社「摂受心院」より上記引用中”~”はまめぞうによる)上記は真如苑の一般向出版物の引用だが故五来重氏は自らの学問手法を”宗教民俗学”としており大谷大学退職後も「日本宗教民俗学研究所」を主宰し、後進の育成にも努めている。氏の著作に触れた時、真如苑開祖霊祖が道開きの根本霊言「顕より密に入り正しく修行し、世の為人の為、正しく道を貫くべし」に依って正当な仏法を至求しつつも、その最初の立ち位置がどの様なものだったのか、蒙を啓かれる思いから改めて尊く観じ、またこの様な手法・視点を、現代社会に生きる真如苑(つまり我々自身)に向けて行った時、そこに新たな発見があるものと期待してもいるが、五来氏をあえて”宗教・民俗学者”と紹介している一節を見る時、開祖霊祖・両童子の命をもって拓いた完成された正しい教えの上に安泰する事を望み、多様な視点で見つめられる事を避忌しようとする硬直化した教団の姿勢があるのではないかと、どうしても勘繰ってしまう。