2015年8月5日水曜日

両部不二、慧印、そして真如 -その1- 密教史概観

 どうも、密教の法流血脈というのは二つに分かれる性質がある
のだろうか。五世紀になって衰退が始まった仏教の中で生まれた
密教は、まず7~8世紀に中国を通じ日本へ伝来した両部不二
密教の基となる中期密教(行タントラ=大日経・胎蔵、愉伽タント
ラ=金剛頂経・金剛界)と、インドで仏教終焉の日まで発達し続
けた後、チベット等を中心に伝えられた後期密教に枝分かれす
る。その後、中国に渡った密教は、唐の時代にこの地を訪れた
空海や最澄らによって日本に伝来するが、正統の密教を求める
過程において両者は断絶してしまい、日本の密教は真言宗(東密)と天台宗(台密)の二大宗派に分かれて発達する事になる。
更に真言宗においては空海入定後、都市を中心に発達した広沢
遍照寺の寛朝僧正の大成した広沢流と、日本古来の修験道との関連の深い小野曼荼羅寺の仁海僧正の大成した小野流から、
それぞれ六流に別れ野沢十二流を形成する。院政期において、
この広範な分派の状況を鑑み、空海の伝えた真の法流の姿を求
めんと、自らに帰依する鳥羽上皇の権威を後楯に諸派の阿闍梨より伝授を受けた覚鑁は、伝法院流と称する統一法流を確立、
に当時衰退しつつあった高野山の復興に尽力するも、高野山経営の問題や保守派衆徒の反発等の為、根来寺に引き下がら
ざるを得なくなる。これによってかえって真言宗は高野山や東寺
を主とする古義真言宗と、覚鑁の打ち立てた法流を基とする新義
真言宗の二派に大きく分裂する事になる。

 中期密教(日本)と後期密教(チベット)、真言宗(東密)と天台宗
(台密)、小野流と広沢流、古義真言と新義真言。常に分裂を繰り
返しているかに見える密教の法流だが、殆ど唯一の例外と言え
そうなのが、夫々別の時期、地域で発展した大日経系の密教と、
金剛頂経系の密教を、別々の師から伝授された、真言第七祖の
恵果阿闍梨ではないだろうか。恵果阿闍梨が異なる二つの法流
を相承する事が出来なければ、今日の両部不二の日本密教は
存在しえなかっただろう。

                                  つづく

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