が当たっている。件の人物が砂川事件の最高裁判決を以って
日本が集団的自衛権を行使しうる根拠とした為だ。
昭和32年、当時真如苑は法難(まこと教団事件)の最終的解決
がついていない中、教団存続の基となった真導院の霊言「僕の
やすむところよりも、皆さんの心の休み場所(接心道場)を先に」を汲み、接心道場の建立に邁進、開祖伊藤真乗は大般涅槃経
・高貴徳王菩薩品の一節「像及び仏塔を造る事、猶し大拇指の
如くし、常に歓喜心を生ぜば、即ち不動国に生ぜん」に触れ接心
道場安置の一丈六尺の大涅槃像謹刻に取組む。こうした教団の
再出発に余念のない状況だったと言って良いだろう。
同年9月22日、立川米軍基地拡張の為の測量阻止の為、基地
内に立ち入ったとして、砂川闘争に参加した学生や労働組合員
23名が検挙、うち7名が起訴される砂川事件が勃発、一審では
無罪(伊達判決)となるも、検察はこれを最高裁に跳躍上告する。
これを最高裁は統治行為論を骨子とした判決により、原判決を
破棄、地裁に差し戻され起訴された7名は有罪となった。しかし
これは米軍駐留を違憲と判断した伊達判決を、アメリカの世界
的核戦略展開の為、当時岸信介政権下で進行中の、日米安全
保障条約改定調印の最大の障害と見た、戦後占領時代からの
米軍基地特権を保持し続けようとしたマッカーサー二世駐日米
大使らの、最高裁判所までをも含む、内政干渉によるものであっ
た事が2008年以降(奇しくも真如苑大日如来がクリスティーズ
のオークションにかけられた年でもある)新原昭治による米解禁
公文書の調査によって明らかにされている。
その後も拡張予定地の地権者らは土地収用を拒否し続け、
1968年(真如苑発祥精舎荘厳の年にあたる)米軍は横田への
移転を決定、1977年(これも発祥第二精舎荘厳の年)跡地は
日本に全面返還されるに至る。基地が返還されなければおそらく
立川市は基地の街となって、今日の様に、多摩地区の中心と目
され、平穏な繁栄を享受する事もなく、そして開祖が接心道場の
時代より構想していた総合道場(現応現院)建立が実現する事
もなかっただろう。
米軍立川基地の変遷 |
司法判断という別のステージにおいて、沖縄を含む他の地域
の米軍基地闘争は今日まで全て砂川事件最高裁判決を判例と
して、米軍の特権は維持され続けている。
砂川事件と田中最高裁長官 |
「歴史は繰り返す」と言う。真如苑が接心道場を復建する本年
安保条約を改定した岸信介の孫にあたる人物が国民と国土の
安全を訴え安保法制を改定しようとしている。昭和30年代当時
と唯一相違があるとすれば、件の人物と真如苑の間にご縁が
ある事だろうか。開祖遷化の平成元年、追悼法要に父君、母君
と共に哀悼の意を表した事が、当時の歓喜世界特集号である、
「創の悠恒に」に記されている。現在氏と真如苑がどの様な関係
にあるか不明だが、教団の社会貢献活動において実りを産んで
いるのだろうか。
冒頭の件の人物のドイツ記者会見の約一週間後6月14日に
真如苑はベルリンにて灯籠流しを行ったが、早い段階で荒天が
予想され、開式を6時間もの大幅に渡って早め執行する異例の
事態となり、予定されていたネット中継は収録録画によるものと
なった。当日苑主代表は挨拶にて「負けない心」を訴えたが、
過去にも、同時多発テロ直前に行われたシカゴ支部落慶の際、
様々な注意が必要なほどの荒天が現地にて見られた事がある。
真如苑苑主はベルリン灯籠流しだけでなく、世界各地で法会
を行い、そこに向けられる人々の祈りを結集、真如の功徳を遍く
展べられている。こうしたみ光が歴史の闇をも照らし、新たな闇
が生じない事を信じたい。
南無真如