前回の投稿から少々時間が空いたが、この間も九月の重要な法要が続く。苑主代表は9月23日の秋季彼岸会には登壇、御導師を済摂の形で務められ、文字通り一切諸霊を廻向。続く9月28日の法前供は「正五九の護摩」の「九」にあたるが登壇は教団職員に任せ、理供で祈り運ばれた。10月6日に控える開基八十年真澄寺大護摩供に向けての事であろう。
真如苑発祥第二精舎ご宝前に、晩年の開祖が使用した法儀用の車椅子が展示されていた(現在も継続して展示されているかは不明)。バブルがはじける前夜、日本が未だ少子高齢化社会へのとば口にたったばかりの1980年代後半、介護サービス全体が今より未発達な頃に作られたものとはいえ、フットレストの角度調整やリクライニング・ティルトはおろか、手押し介助用のブレーキ・ハンドルさえついていない、文字通り椅子の下にキャスターを付けただけの、車椅子と呼ぶのもおこがましいこの危険物を見ていると、おそらくこれに感謝でお付き合いくださった、開祖の深く広い器に、我々が如何に包まれ慈しまれていたのか、その一端がうかがい知れようというものだ。
真如苑にとってはある意味、その開祖伊藤真乗の遷化という大悲痛事によって、新たな時代の到来を痛感させた平成の御世も終わろうとしている。世間においては、昨冬の二度のインフルエンザの流行や今夏の酷暑等によるものか、一時代を築いた高齢な著名人の訃報が相次ぎ、日本を代表する平成の歌姫の引退、片や応現院の隣に昨秋出来て間も無いアリーナ立川立飛では、有名なテニスのトーナメントが行われ、最高の舞台での勝利への反感を、日本的マインドで受容して見せた、新たな若い日本の女王の登場に、立飛駅周辺は賑わいを見せた。
昭和天皇崩御の際の大喪の礼に合わせて行った追悼法要が、開祖の最後の苑内公式法要の御導師であった事は、以前に述べた。それから三十年近く、日本の象徴であり、国民の安寧と幸せを祈り続けられた陛下が、時代の移り変わりとご年齢による御身体の衰えから、務めに深く思いを致し、皇室の後継の定まらない有様こそ、超少子高齢化に喘ぐ日本の国の姿そのものではないだろうか。
「不徳の致すところ」とは恐ろしい言葉だと思う。全ての事を自分の責とする覚悟のない、後付けで理由を述べる事が当たり前の者が口にしてよい言葉では断じてない。現代の日本では「自分の振舞いが他に迷惑や誤解を与えた」といった意味合いに使われるが、古代においては人間社会の事ばかりでなく、天変地異や疫病、凶作等悪い事象の総てを、国の首長が自らの徳の無さと受け止めていた。こういった徳の無さが自覚された場合、み仏の教えに依って功徳の増益を図るのが古の常であり、神事を先としつつも、徳の尽きぬように仏の教えが重んじられていた。近世、孝明天皇まではご即位にあたって密教の灌頂儀礼が行われ、これに詳しい公達が印契や真言を伝授したそうだが…。
続く
9/15(土)より二日間に渡り行われた斉燈護摩も終わったその翌日、三連休の最終日に立川市泉町の真澄寺別院・応現院では「開基八十年・敬老のお祝い」が行われた。例年だと斉燈護摩は十月の最初の週末に行われるが、開基八十年の本年はここに大祭が予定されている為、斉燈護摩がこの三連休に前倒しされている。また当日9/17は、現在真如苑の護法善神となっている笠法稲荷大明神を、開祖伊藤真乗が「弘法大師杖突きの水」と伝えられる湧き水を用い、立川に勧請した日でもある。
法要、読経の後に声楽によるシンプルなお祝いのセレモニー。開祖親教の後、VTRによる昨年の敬老のお祝いの苑主瑞教が続く「常楽を信じていきましょう」。最後に長塚教務長により式が締めくくられる。苑主代表の登壇は無し。昨日まで斉燈護摩で御導師を務められた苑主代表自身が既に後期高齢者である。お祝い申し上げたい気持ちがあっても止む無しというべきだが、この点について教団事務局より一切のコメントは無し。大事な件になんの発表もない時であれば尚の事その動静には注意を払う必要があるのがこの教団である。
当日の食堂のランチは野菜のあんかけ、祝いの品として赤飯がつく。最近はこういった日でなくても依処において、杖やシルバーカーを用い、あるいは車椅子を押してもらって移動する高齢者の姿を当たり前の様に目にする事が多くなった。心身が衰えても「外出の自由」が維持されている事は帰苑する高齢者にとって非常に大きな仕合せだ。
斉燈護摩の時期になると、どうしてもあの事件が思い出される。今もって事の詳細は伏せられたままだが、今は只、あのような理不尽な体験が、件の教団職員の聖職者としての精進を後押しする事を祈るばかり。
事件当時より容疑者が心を病んでいるともとれる報道があった事から自分は、教団職員の対応にいわゆる福祉の仕事などにおけるコミュニケーションスキルのセンスがあれば、あるいはあのような悲惨な状況に至らずとも済んだのではないかと考えていた。しかし、昨今の福祉・医療の現場における様々な報道を見ると、事はそう簡単ではなかった様だ。
曰く、医療・福祉に従事する職員の利用者への、時に命を奪うに至る加害行為ばかりではなく、利用者や家族の、職員や事業所へのハラスメント、そして起こる刃傷沙汰に至っては、老病死に悩む人を支える仕事に携わる人々も、またその苦しみに諸共に巻き込まれているかのように見える。
こういった医療・福祉の様な、直接命を預かる現場には、職員の待遇面ばかりではなく、ソフト・ハードの両面に渡る様々な経営資源の投下が不可欠であり、各々の現場がその抱える問題諸共オープンである事が望ましい事が、既に多く指摘されている様だが、自分がこれにもう一点付け加えるなら、こういった職務に携わる多くの人々が、何ら死生観や人間観等の拠り所を確立する事無く、苛烈な現場に送り出されている事にも問題があるのではないだろうか?。この点について現状の医療や福祉の教育は、果たして十分なものだろうか?。多くの法人が打ち建てる理念は、こういった問題に応え得るだけの内実があるのか?。顧客としての家族の思ひと、社会情勢から年々困難さを増す法人経営の重圧の中、利用者と職員の人権と尊厳が、共に抜き差しならない緊張感の中に置かれた、福祉・医療現場の苦悩が、いわゆる職員個人レベルのストレスとして扱われ、主な対策がアンガー・マネジメントに依存していていいのだろうか?。
自分が身の回りで、こういった問題に直面すれば、一教徒としてみ教えを以て、関係各位と共に困難を乗り越えようとするだろうが、まさかここではそうもいくまい。
2011年の東日本大震災では、多くの宗教者が支援に取り組んだ結果、宗派を越えた連携が実現、被災地以外での医療・福祉の現場において人々の苦しみに寄り添い、向き合える宗教者の必要性が洞察された事から、東北大学等においてこれに応える事の出来る宗教者、臨床宗教師を育成する取り組みが行われている。
勿論この取組み自体は宗教専従者向けのプログラムであるが、この成果を基に宗学連携の、特定の宗旨宗派に依らない、医療・福祉従事者により相応しいプログラムが確立できるなら、その成果は社会的に非常に大きな意義を持つものではないだろうか?。
続く