2014年10月8日水曜日

「真如苑立川総本部教団職員傷害事件」について①

 10月8日弁才天供。真如苑応現院境内は、白い舗装からの
照り返しに火照った膚に秋風が心地よい。法要は10時半開始、
まるで10月4、5日の事件などもう忘れられたかの様に粛々と
進行しているかの様に見えたのだが…。

『(斉燈護摩は)野外の護摩なので、
      来年も雨が降ろうが外でやります』

 これは本日の修法後の苑主代表の発言だが、実際に当日
血の雨が降っているので、自分には『どんな雨が降ろうが』
と言う意味に聞こえた。法憧の教団職員も直接事件には
触れず、苑主代表の不退転の決意を語る内容。

 教苑だけでなく、世間一般でも容疑者逮捕以降、新しい報道も
無い事からこの件への関心は急速に薄れている。しかし…
 ある漫画家さんの作中の決め台詞ではないが因果の理法では起こった事には必ず理由があると言う。この事件(事象)
には一体どの様な因と縁があるのだろうか…。

 容疑者男性の供述を伝える報道は要約すると以下の通り。

①「総本部の代表に会おうとしたら男性が通ったので刺した」
②「けがをさせたのは間違いないが人とは思わなかった

③意味不明

 まず①について、勿論言うまでもなく「刺す」のは論外だが
「一度は苑主代表と直接会って見たい」と、総ての教信徒が
多かれ少なかれ一度は思った事があるのではないだろうか?。
 戦前よりの教団確立期、開祖・伊藤真乗とその家族は
文字通り総てを投げ打ち真澄寺を建立、そこに住み済世利人
に取組んだ訳だが、その信仰生活には一部のプライベートも
なく、つまりは誰でも開祖霊祖に会い、その言行や人柄に触れ
当時の教信徒各々が大きな影響・成長した事により教団の
人的基盤が確立、今日の真如苑の基礎を築いたと言えよう。
 しかし振り返って、今日の苑主代表と不特定多数の教団職員
ではない在家一般教信徒との関係はどうか?。苑主代表の
諸活動はワールドワイドでグローバルなものになり開祖
存命中から既に代表と一教信徒が個人として接する事など、
物理的に不可能。「夢のまた夢」といった状態にあった事が
既に「教化の浸透」の上で大きな障害となっており
昭和42年の霊祖遷化後の教団における課題だった事は
平成元年遷化した開祖の遺言「定記」にも明らかな所である。
 こういった現状を打破する契機として私が期待したのが
東日本大震災の折から教団において活用されたTwitterだった
のだが、今日に至るまで教団外でのコミュニケーション手段
としては非常に消極的な利用に留まっている。(私は以前
このブログにおいて苑主代表のTwitterアカウントの立上げ
の要望を述べた事があるのだが、私は現在もその要望を
持ち続けている)
 こんな事を述べると他の教徒の方から「救いの霊線を信じていないのか」、甚だしい場合には「教えを信じていないのか」等と
ご批判を頂く事が多いので特にリアルでは話す事は少ない。
 また、教団もこういった個別のメッセージについて只「皆さんの
言葉を独り々々聞いております」と紋切り型のコメントに終始し
それらに対して教団としてどの様に感じたか、どうするか不明な
まま終わらせたり、「おもひ」の受け取りを真如霊界に仮託して
話を切り上げてしまうのが常である。こういった状況の中、
多くの教信徒は教団が用意したメッセージのやり取りにのみ
希望を託し、本当のおもひを明らかにしなくなっている。
 こう考えると件の容疑者氏の「代表に会おうとしたら」という
言葉にほんの僅かだが理解できないだろうか?。何を伝えようと
したのかも解らないし、刺すのは言語道断だけど…。 

0 件のコメント:

コメントを投稿