ここ数か月ほど、重要な法要に参座する際は、可能な限り開式より1~2時間ほど早く境内に参拝し、弁才天法の修法
を拝させて頂いているが、どうも修法にかかる時間の内、
笠法稲荷社殿での礼拝にかける割合が以前より長くなって
いる様に思われる。これは修法にかかる時間を実際に測った
訳でもないし、ましてや自分は加行を頂く身でもないので
単なる印象にしか過ぎないのだが、本日も同じ様に立会って
見て益々それが強くなった。もしかしたら修法の内実は、
弁才天法というよりは護法善神法とでもいうべきものに
なっているのでは…、と不遜な想像を巡らしている。
以前、真如苑で霊示により笠法護法善神の真言が新たに
制定された事を報じたが、尊格に新たに真言が制定される
という事は只それだけに留まらない。大は法要の式次第や
修法に始まり、小は一般教徒の勤行に至るまで、新たな咒
をそれまでの修法の中にどの様に納めていくかという問題
があればこそ、発表から昨年の寒修行に至ってのお唱え初め
であり、更には今年の初午会まで段階を踏んでの、法会の
拡充だったのではないだろうか?。
更にはそれ以前、「笠法護法善神の顕揚」が霊示された
背景には、真如苑の聖地復建は元より、先年平成25年の
伊勢神宮・式年遷宮や出雲大社・平成の大遷宮などによる
日本の神さまへの意識の高まりもあるのかもしれない。
真如苑(悠音精舎)では神仏習合について岡本彰夫氏の
講演が行われている。(歓喜世界249~251連載)
常常この様な変化が、真如苑において様々に起るのは
真如三昧耶流が活きた法流だからであろう。活きている
というのは、常に内外に様々な変化があるという事である。
「活きている」という事は、時として生々しい。涅槃経
の研究で知られる下田正弘氏も、以前苑での講演の中で
真如仏塔や開祖霊祖・両童子のみ像への参拝について
「ここは分水嶺」と評されている。現代社会に生き、人権
等の様々な観念を発達させた我々にとって、現在進行形で
こういう事があると、受容れ難い感覚に執われるのも無理もない話かもしれない。数か月前にもこんな投稿があった。
しかしながら、時宗の一遍上人や、浄土真宗の親鸞聖人
等の祖師信仰という観点から真如苑を見た時、それほど
不自然な事をしているとはいいがたいのだ。
南無真如
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