2017年9月29日金曜日

慧燈応現法要⑤ ー並立の詳細②ー

 前回に続き、讃題常住讃の関係を整理しておく。
夫々の描く三角形の頂点の対比は以下の様になる。

  讃題   常住讃

① 仏  ⇔ 開祖・霊祖・両童子
② 法  ⇔ 真如三宝
③ 僧  ⇔ 聖地親苑

 ①と②について、それほど説明の必要はないと思われる。
注意すべきは③だろう。通常「僧」といえば「人」であり、
「僧伽」といえば「仏教教団」を指す。にも拘らずここで
「場所」が対比されている。
 上図「僧」の下段に(教苑)とした。開祖の讃題における
三宝一体の理の教導には、「僧」の意味で「教苑」とある。

「…法に依りて、人に依らざれ
  義に依りて、語に依らざれ
  智に依りて、識に依らざれ
  了義経に依りて、不了義経に依らざれ…」
大般涅槃経四依品より

 一貫して「親苑帰一」を打ち出している苑主代表には
人の集団・組織ではなく、それらが活動する場所である
聖地や依処をも含め「教苑」との認識がある様だ。
 常住讃ではこれを更に一歩推し進めて

僧伽(僧団)⇒教苑⇒聖地(親苑)

教苑というキーワードを介しての積極的トランスレーション
が読み取れる。前々回において人間集団が本質的に抱える
問題が宗教団体においても同様である事を述べたが、こう
いった認識に立つ限り、教団が人と仏を繋ぐ紐帯であり続
ける事は不可能である。苑主代表はこの問題を「教苑」と
いうキーワードを介し、常に過ちを犯し続け信頼を損なう
「僧(伽)」を、霊意によって定まり、開祖霊祖とこれを
慕う過去多くの人々の祈り行いの集積が今も凝結し続ける
「聖地親苑」に換える事でブレイクスルーしようとしたの
ではないだろうか。

 人々を、教団組織に執われる事なく、開祖霊祖・両童子
に、より直に深く強く繋げていこうとする、苑主代表の
祈りの結実が常住讃と観ずる。

                 続く

 








2017年9月21日木曜日

慧燈応現法要④ ー並立の詳細①ー

 苑主代表の選択の結果としての称名の並立。その結果どの
様な状況が生まれたのか。苑主代表が今後讃題のみでは限界
があるとしたからこその常住讃である事だけは、間違いない
と思われる。以下に讃題の三宝一体の理を図示する。
 仏→法→僧とトップダウンの方向性がある事がわかる。
次に、上の図にならって、常住讃の理を図示する。
 更に、上の二図を重ね合わせてみると…
 上図を見ると、開祖が伝統の枠組みを尊重し制定した讃題
のフレームワークに、苑主代表が真如苑独自の内実を整えた
ものが常住讃であると言える。更に特筆すべきは、開祖が
定め讃題の枠組みに、苑主代表が常住讃によって開祖自身
も摂めている事ではないだろうか。これは開祖が生前に
行えないし、決して行ってはいけない事でもあったと思う。
称名の並立が発生した一番の理由はおそらくここにあったの
だろう。そして、一見並立しているかに見える讃題と常住讃
二にして一の関係も見えてきたようだ。

                    続く











2017年9月12日火曜日

慧燈応現法要③ ー制定の背景②ー

 こうした歩みを辿った教団の現在はどうか。

「…摂受心院死後において苑は栄えてきたが、教化の浸透においては、
 摂受心院の存命中のようにはいかなかった。…」定記より

 事態は在世の開祖が憂慮した状況より更に進んでいると言わ
を得ないのではないか。

 讃題が制定されて半世紀、霊祖遷化後初の月命日より本年
で五十年を迎える九月六日。仏法僧三宝一体の理を基として
二つを一つにし、開祖が日本三大称名の一つと絶対の確信を
のぞかせる讃題。それに新たな根本を定め加え一つが二つ
になる選択を苑主代がなすのは、国際的な活動領域を持つ
に至り、上下に重層化した、百万人に届こうとする巨大な、
コミュニティと化した教苑が、「内」と「外」に大きく別れ
つつある事の証左であるように思える。

 大規模かつ高度に発達した現代社会において、それを支える
様々な諸機関・諸法人が、ヒューマンエラーや不祥事等、人為
的要因によるトラブルが日々大きく取り上げられ、信頼を失い
権威を失う事が日常茶飯となっているが、宗教法人も例外とは
言い難い。 しかしながら、真如苑(僧伽)は宇宙で唯一、
真如三昧耶流を現世に現す機関であり、どれ程の問題を抱え
ようとも他に代替は存在しない。ここに我々の苦悩がある。

 この様な状況の中、教団内外を問わず「仏」への信を繋ぎ
続ける為の、苑主代表の答えが常住讃であり、更には讃題との
称名の並立だったのではないか。

                      続く

2017年9月9日土曜日

慧燈応現法要② ー制定の背景①ー

 こうして制定された常住讃だが、過去半世紀に渡り、唱え
られてきた讃題と併せ、常住讃も根本(こんぽんじゅ)と
されている。こうして真如苑では二つの称名が並立する事に
なった訳だが、根本頌となる称名の並立というのは他の宗派
にもある事なのだろうか?。浅学非才にして寡聞な自分だが
これは世界的に見ても大変珍しい事なのではないだろうか。
 こういった事態について予め8月中に教苑会・総部会・
親苑時報等を通じ教団側から念入りに広報が実施されており
当日の瑞教でも「これは凝縮です」とのお言葉があった。

 しかしながら、敢えて「称名の並立」という少々理解に
努力を要する道を苑主代表が選択したのは何故なのか?。
 もし、讃題を廃すればそれは新時代における開祖の否定に
つながり、このまま讃題のみを選べば苑主が見出した新たな
しかも重大な祈りを伝える必然性を否定してしまうのか…。
東京都の中央卸売市場移転問題で小池百合子都知事の発言
築地は守る・豊洲は活かすにも一見似たような状況に
如何なる意味があるのか?。

 この状況を読解く鍵として、讃題と比較して常住讃から
三宝(仏・法・僧)のうち「僧(伽)=教団」の要素が
取り除かれている事に着目したい。

「…摂受心院死後において苑は栄えてきたが、教化の浸透においては、
 摂受心院の存命中のようにはいかなかった。…」定記より

 組織運営論めいた話だが、どうもリーダーシップというの
は二通りあると思う。組織の内外を俯瞰しメッセージと舵取
を行うトップの役割が一つ。と同時にトップの内面を理解し
組織内にそれを適切に浸透させる、牽引役としての役割。
この二つの役割を担う者が互いに協力し合って初めて組織は
動き出す事が出来る。詳細は伏せるが、これは私自身が教団
と全く関わりの無い所でこういった問題に直面した体験から
述べている。開祖が自分達夫婦の事を「一心同体ですね」と
評された時「いえ、一心一体です」と答えたエピソードを聞
いた事があるが、まこと教団事件終結以後、開祖霊祖が共に
在世の昭和42年までは、教団の運営が安定期にあり、この
真如苑において三宝一体の理が実際に実現していた時期
言ってよいと思う。(昨年荘厳の復建真澄寺・接心道場は、
丁度この時期の教団を再現したものである)霊祖摂受心院が
当時二つに分かれていた讃題を一つに統合する旨、開祖に
願い出たのはこの時期の体験に依るものだったのではないだ
ろうか。
 しかし、昭和42年霊祖遷化以降、教団における内側の
リーダーシップは衰退、平成元年開祖遷化以後この問題は
教団を継承した現苑主代表・真玲姉妹に「定記の取組み」
として引き継がれる事となったが、苑主代表自身をして

「定記の取組みは私達が生きている限り続きます」

と言わしめるほど難しいものであり、その動静は時として
外部に報道され、重要な法要の登壇の際、真玲猊下の沈痛
な面持ちの隣で、苑主代表や教務長が耐えかねた様な表情で
祈る様子が見えた時など、参座の一般教徒までがハラハラす
るような有様だったのをついこの間の様に憶えている。

 この様に苑史を振り返ると、霊祖摂受心院の願いにより
三宝一体に帰依の理によって二つの称名を一つにした讃題
が、昭和42年9月6日に制定されてより半世紀、仏法僧
のうち「僧(伽)=教団」に人を得ず、その本来の宗教的
ポテンシャルを発揮しきれないまま、教苑を次代に継承する
事への大きな懸念が常住讃制定の背景にあったのではない
だろうか…
                      続く

2017年9月7日木曜日

慧燈応現法要 -常住讃制定-

 2017年9月6日、小雨。昨日は大規模停電による鉄道
の混乱や、旅客機の緊急着陸等、大規模な交通機関トラブル
があり、今朝もそれらについての報道が続いている。本日は
予て常住讃制定をいよいよ迎える事となった。
 この常住讃、苑主代表が海外等の一般公開する法要等で
唱え始められたもので、その法要での扱われ方から外向きの
傾向が感じられたため、以前からこのブログの文末の結びに
も、慣用的に用いらせて頂いていたものが、本日改めて公に
制定されたものである。

 メイン式場は応現院御宝前、内陣の登壇席は通常左右二列
づつだが、本日は左右とも三列。真如苑の最高意思決定機関
教議会のお歴々もほぼ全て登壇している様だ。11:00開式、
奉讃文を次期苑主指名の鳥飼尚之教務長が奉読する。読経、
心中祈念の直前の五遍は従来通り。公式の法要ではこれが
最後になるのだろう。読経が終わり苑主瑞教にて全苑教徒
初の常住讃唱和となる。五遍唱和したが一回毎にあるいは
高くあるいは低く唱える音調は、真如苑の今迄の声明にも
見られなかったものだ。併せて、本日の法要で祈念込めた
木札についての説明。先に発刊された親苑時報9月号にも
詳しいが、通常の縦型ではない、正五角形に近い木札の
上部に常住如来の種字を、中央に常住讃を配し、裏面には
開祖霊祖・両童子の夫々のモチーフが描かれているこれは
木札というより、むしろ真如霊界の中核を表した曼荼羅
ではないかと見える。

  定記の取組みが安定して後、苑主代表の阿闍梨の意楽
日本仏教の伝統を尊重しつつみ教えを建立した開祖の唱え
る世界観に則り、真如み教えの独自性をより強く打ち出し
てきたように見える。その行きついた先に今回の常住讃
制定もある訳だが、その祈りは如何なるものなのか…

                     続く

2017年9月4日月曜日

慧燈霊線参拝

 少々長かった改修工事が終わり今夏、慧燈霊線参拝が開始
された。慧燈院の庭先のほんの一部を改修・解放し、少々の
ギミックを追加しただけの、稚拙で些細なあっけないぐらい
の体験ではあるが、その記憶を反芻する度、自分自身が帆に
暖かい風を受け走り出す舟の様な心地がする。開祖霊祖の
祈りとは、きっとこの様に人々を勇気づける物なのだろう。

 さて、この開祖が晩年の数年間を過ごした慧燈院だが、
以前は青年道場という、現在で言えば応現院の食堂棟と
修行棟を合わせた様な施設があった土地に、1970年代
後半の発祥第二精舎建立に伴い、狭小となった総本部
発祥第一精舎にあった庫裡棟(笠法護法善神社の後方、
2010年代後半の聖地復建荘厳にて取り壊され、現在は
境内地となり頒布コーナーの仮設テントが設置されている。
青年道場の機能はその後建立された青年会館に継承された
が、それも昨年取壊され現在は真澄寺別院・第三布教会館
となっている。以前にも「布教会館」の名を冠した教団の
施設はあったが、第三布教会館が「真澄寺別院」とされて
いる事に注意したい。)
が移設されたものだった。その為建立後「慧燈院」という
名称が定まるまでの僅かな期間ではあったがこの建物を
オミクリ」と呼んでいた時期がある。だがこの呼称は
好ましからざるものだったらしい。正式に慧燈院」と
名称が決まった際、その理由として

『「クリ」と呼称される建物は「僧侶の住居」を表し
税法上宗教法人が受ける免除の対象外になるから』

という話が、非公式に当時の青年層にまで伝わっていた事
を憶えている。今回慧燈霊線参拝が行われ慧燈院も教徒の
参拝の場所となった事から、私もこのエピソードの開示に
踏み切った次第。

 どうも自分は誤解されているのではないだろうか…
三年前のショッキングな事件を報じた際、同時に教団の持つ
閉鎖性を中心に批判を展開した自分だが、別に尊き方々の
生活の様子が見たい訳ではない。立教当初とはくらべものに
ならないくらい巨大になったこの教団の非民主的で不透明な
在り様に未来への継続の危惧を抱いているからだ。

 今夏、慧燈霊線参拝に至るまで

青年会館取壊し→第三布教会館建設→慧燈院改修







のプロセスがあった訳だが、おそらくそれまで慧燈院内部に
あった教団運営機能も、第三布教会館に移転したのではない
だろうか?。確かにこの慧燈霊線参拝によって我々一般教徒
と、尊き方々の距離はより近いものになったのかもしれない
が、その陰でこの見通しの悪い教団組織が、より人知れず
隠然としたものになっているのかもしれない。

                      南無真如