2019年3月28日、真如開祖113歳生誕を祝う大祭当日。
立川では、十日ほど先の釈尊の生誕を思わせる、優しい雨が降っている。例によって応現院で参座する。
昨秋、開基八十年の一如まつりで、醍醐寺より目録にてお約束頂いていた。如意輪観世音座像と、不動明王の脇侍となる二童子像を、真如苑関西別院・悠音精舎でお迎えした。
因みに、醍醐寺で如意輪観音像といえば、昨年公開されたこちらが有名だが、本日お迎えしたみ像はこちらではない。
法要が始まる。醍醐寺百三世座主・仲田順和猊下が、重役方と共にお出まし。ご列席をお迎えした後に読経が始まる。伊藤真聡苑主代表が法要の御導師を務めている。途中『感謝』の所で、経頭が苑主代表の名号を唱えかけ、慌てて言い淀んでいる。苑主本人が御導師を務めている時、法要にご来賓がお見えになっている時は、これを避けるのが通例である。
仲田順和猊下に御挨拶を頂く。聖宝理源大師は、既に開祖在世中に、真如苑に勧請されて久しい准胝観世音菩薩と、本日お迎えする事になった、如意輪観世音菩薩の二尊を奉じて醍醐寺を開山したが、この二尊の祈りがそのまま醍醐寺の根底にある生命観を象徴していると言えようか。
更には、み教えのみ力のルーツが、如意輪観世音菩薩の祈りに秘められていると明かされた事は、全苑教徒にとって、この盛儀の一番のトピックと言っていいのではないだろうか。
続いて苑主代表の挨拶。あれっ!?と思う事が…
先の仲田猊下の御挨拶では本日の盛儀は
「…継主さまからのお願い…」
今の苑主代表の挨拶では
「…醍醐寺さまからのお申しにて…」
これは、どっちがニワトリでどっちがタマゴ?
だがこの件、お二人のどちらが先に願ったとしても、各々の立場に具合の悪い事になるのかもしれない。醍醐寺と真如苑の関係についてはこんな記事まで出るくらいだから…。
これ以上、野暮な詮索はするまい。ここは二人の阿闍梨が「融和の祈りの中に意見の一致を見た」という事にして置こう。
なお、当日迎えた三像は、修復や学術研究の対象となった後に入魂、順次教団施設を巡った後、半蔵門ミュージアムにて世に公開されていくとの事。真如苑大日如来像と同じく、一般公開までは相応の年月が費やされるのだろう。
21世紀は霊性の時代…
アンドレ・マルローやカール・グスタフ・ユングが指摘したそうだが、如意輪観世音を迎えた事は、真如教徒にとって、自らの霊性を自覚し高める大きな機会であり、これによって、各々置かれた場所で、総合的な判断を発揮していく為の、大きな原動力を頂いたものではないだろうか。
南無真如
いよいよ、平成も終わろうとしているこの時、東日本大震災を機に始めたこのブログも、一応の区切りをつけるべきかと、合間を見て更新を進めている。
自分以外にも、公式サイトを含め、各々の立場から真如み教えについて語る人々がいるが、自分の一番の特色といえば「一般教徒の立場」という以外に、ゴジラを通じてみ教えについて述べたという点だろうか…。
2016年・立教80年の夏公開されたシン・ゴジラによって、立川防災予備施設が脚光を浴びた事から、自らの聖地親苑がある立川市が、都心壊滅時には日本の政治行政機構にとっていわば最後の砦とも言える場所であり、防災予備施設の中核をなす陸自立川駐屯地こそ日米の根深い関係をなす因縁の地である事が、改めて明らかになったと言えよう。
シン・ゴジラではもう一点、ラストシーンで東京駅直上に屹立するゴジラが、皇居を向いているとの指摘があるが、東京駅よりゴジラの視線を想定し、半蔵門の真如苑友心院まで直線を引くと、概ね御所~皇居宮殿を通過する。
同じ2016年より、真如苑では開祖伊藤真乗が、その生涯最後に導師を務めた苑内公式法要の2/24を真如特別法要と定め、以降本年まで毎年これを執り行っている。同年夏には天皇陛下がお気持ちを表明されているが、このタイミングで真如特別法要が制定されたという事は、開祖の最後の祈りを尊び、真如苑としても皇室の世代交代に陰ながら寄り添う祈りがあると愚考する。
昭和天皇の薨去により始まった平成と違い、平成天皇が生前退位を選択した事で、令和に向けてその世代交代が緩やかに進んで居る感があるが、平成元年当時、昭和天皇追悼法要執行の後、開祖が体調を崩し、現伊藤真聡苑主代表へ突然の世代交代をした当時と違い、6年前の後継者指名以降、真如苑でもそのプロセスは穏やかに見える。とはいえここ最近は特に重要な法要でない限り、苑主代表は理供で祈り運ばれる事が多い。
ゴジラというコンテンツも、新たな時代に向けての模索が始まっている。戦後の日本という背景を背負った作品としては総括ともいえるシン・ゴジラが、興行面では海外で振るわなかったというより、理解されていない現実に、全く別次元の製作陣によるアニメ版ゴジラ3部作による新たな模索が始まり、今また令和最初のゴジラとして海外版の公開が秒読みに入っている。
この様に見てきた真如苑は阪神大震災以降、SeRVを設立、東日本大震災にはその活動が脚光を浴び、現在も各地で活動を続けているがそもそも仏意によって定められた親苑に祈り運び荘厳をなす事で、天変地異や少子高齢化、激変する国際情勢等により、衰退しつつある日本を目に見えない基盤から下支えしていると言ったら我田引水にすぎるだろうか…
南無真如
日々の務めを第一に、僅かな余暇の合間を縫って、更新の機会を得たのが、空前の10連休GWの直前。改元も秒読みに入ったこの時、結論を急ぎたい。
話は昨秋に戻る。半蔵門の真澄寺別院・友心院において、駒沢大の池上良正教授による講演「施餓鬼と廻向」が行われた。これには、日本は元より、極東の諸地域における死者への供養が、身内からより多くの他者へ、仏教を基底として、元々仏教の中で別の物だった、施餓鬼と盂蘭盆が混然として発展拡大し、最終的に、コミュニティの集団儀礼として確立していった事が述べられている。
真如苑も立創よりその発展に応じて、多摩川、霞ケ浦、河口湖、そして現在ではハワイや台湾で水施餓鬼廻向法要・灯籠流しを行うに至っている。
このシリーズの最初の回で、福祉の現場における問題について指摘した。改めて教書「一如の道」を紐解くと、これに対応するかのような、医療職の誓願を題にとった摂受心院の親教が収録されているが、今日の視点で改めてこれを拝読するに、これは医療職だけでなく、広く福祉の職にある教徒全般にそのみ心を向けられたものであり、廻向というものがどの様な所から通じるか、説かれている。福祉の仕事に廻向に通じる道があると言えよう。特に、高齢者介護においては、人生の最期の時を迎えた利用者に、追善追福の廻向を手向ける大きな機会に恵まれているのではないだろうか。日本は祖霊信仰の国である。
このシリーズの2回目で、日本の超少子高齢化と、皇室の後継問題はいわば同根であるとの私見を示した。神仏分離の徹底した現状の制度から、古の様に皇室自体が仏教によって徳を積みこの件を解決していく訳にはいかない。
聖武天皇の大仏造立の詔には『…一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情に願う者有らば、恣にこれを聴せ…』とある。衰退の一途を辿る日本において、特に過酷な状況に置かれた高齢者介護の現場において、これに関わる一人も多くの職員が、この詔の様に徳を知識として廻向し僅かでも利用者への生前からの追善追福に取組み、やがて最期を迎えた時に独りも多くの徳の在る祖霊を送り出していく事に、日本のスピリチュアルな復興の可能性があると思うのだ。
南無真如
前回の投稿より、また暫く時間が空いた。先週末10/6は親苑にて、開基八十年真澄寺大護摩供が行われた。普段は奥の院におられる伝運慶作の本尊・大日大聖不動明王を真澄寺内陣の開祖謹刻・涅槃法身不動明王と共に安置、祈念の本尊として行われた。法要後、「今日は(大日大聖不動明王の)お厨子を外して(護摩を)行いました」と、苑主代表の弁があったが「汝の信ずる心を厨子とする」との教導のある不動明王像を表に出したのは「これからは皆の信じる心を結集して教えを伝えて欲しい」との苑主代表の願いであるように思われてならない。登壇した真玲猊下の表情も穏やかに見え、最後は開祖在世時を彷彿とさせる境内セレモニーで締めくくられた。
この間も節目を迎えた世の中の動きは慌ただしい。関東大震災を機に、日本橋より移された築地市場が、再来年の東京五輪を含めた都市計画によって、とうとう豊洲に移転、本日開場の運びに。同じ時期に、日本を代表する銀行のシステム統合も大詰めを迎えている。諸産業とそこに働く人々は大きなテクノロジーの変革に翻弄され、人間活動の結果としての気候変動は日本の四季をも変えるに至っている。
そして今年は明治維新から150年にあたる。前回、天皇と仏教の歴史的つながりについて少々述べたが、明治維新の神仏分離から太平洋戦争終戦~米軍の占領を経て、高度成長期から平成の現在に至った現在、天皇と仏教の関係も隔たったと言えよう。古と同じようにはいくまい。
…などと、ゆるゆるやっていたらあっという間に…
続く